「メガネ越し、傍目八目(おかめはちもく)、右も左もぶっ飛ばせ!」






・・・・・・・・ONと一緒に過ごした子供達・・・・・・・・・・・・


京都の名勝「嵐山」。その河川敷に多くの原っぱがそこかしこに点在しています。
とてもグランドと呼べる代物ではありませんが、
それでも小学生には十分すぎる「球場」でした。

昭和40年代前半、私達は日曜日になると
母親が作ってくれたお弁当もって、
夕日が嵯峨野の山に落ちるまで軟球を追い続けました。
監督は近所の印刷工のおじさん。(と、いってもまだ30歳超えたばかりの人でした)
背番号は当時の川上監督にあやかって77番。



ただ、この人、監督のくせにノックが下手で、
外野のノックがちゃんと定位置に上りません。
仕方なく私達は外野の20メートル四方に10人ほどがかたまり、
その近辺に打ち上げられた一個のボールを、
それこそ池の鯉がえさを奪い合うようにして追いかけました。
他の人から見たらそれはとてもノックには見えなかったと思います。



そしてONの背番号の1番と3番はエースとガキ大将のもので、
私は森だから27番(西武の森監督のキャッチャー現役時代の背番号。
オマケに名前が森だからキャッチャーやれと監督から命令されました。
顔よりミットの方が大きかったことを覚えています。)



グランドだけでなく移動も大変。だぶだぶのユニフォーム姿の
25人もの小学生が乗った阪急電車の車両は動物園状態。
それを一人の大人が引率するわけですから、
いまさらながら監督さんのことを思い出すたびに、
苦労をかけたと思ってしまいます。



そんな光景を見ていた一人の男がいました。
それは、私の父親でした。   続く。