「メガネ越し、傍目八目(おかめはちもく)、右も左もぶっとばせ!」




マスターはその時のことを
「とっかかりは、小さな恋のようなものだったかもしれないし、
旅の途中の、もう一つのインナートリップだったかもしれないし、
幼い日の光景のデジャヴーだったのかもしれない。
まあなんにせよ、この少女との出会いが、
彼の人生という航路の中で、はじめて舵がきられた瞬間やった。
しかも、おも舵いっぱいでな」





今まで彼の周りに集まっていた人間は、大人も子供も父親へのこわもてか、
彼の持ってる、中学生にはふさわしくない多額の金が目当てでした。
それに気がつかないほど鈍感ではなかったが、居心地としては悪くない。
「まあええか」
自分を適当に納得させていたのでした。




ところがこの少女は、今までの誰とも違うアプローチで少年の中に入ってきました。
少女の前では、今まで自分が頼りにしてきた金も、親分の息子という立場も、
相手を威嚇することも、もはや何の意味も持ちませんでした。
この少女の登場が、彼の心の前に立ちふさがっていた大きくて深くて、
そして暗い扉を音をたてて、しかも一気に開かせたことは、疑いようのない事実でした。
マスターは少年からのコンタクトを待つことにしました。



翌日、日本へ向けて離陸した旅客機は,ほどなく水平飛行にうつりました。
シートベルトのランプが消され、と、同時に少年はマスターの席へやって来ました。
隣にはほかの乗客がいたので、マスターは通路に立ち尽くしてる少年の顔を見ながら
「俺がそっちへいこう」と二人は、もとの座っていた席へ腰をおろしました。




「どうした、えらいかしこまって」
ちょっとからかうように、マスターは少年に語りかけました。
すると「僕・・」  僕ときました。
今までこの旅行中、俺かワシ、一度だって僕なんて言ったことのない少年が僕です。
はじめは恥ずかしそうに口ごもっていましたが、
マスターの目を見ながら、意を決したように話はじめました。
「僕、英語習いたいんや」




マスターは口を挟まずに、彼に話を続けさせました。
「昨日な、僕、あの家行って女の子とずっと遊んでたやろ。
その時、ほんまに楽しかった。いままで遊んでて、あんなに楽しいと思ったことなかった。
ずっとあの家にいててもええと思うぐらい楽しかった。喋れんでも・・・・・。
そやけど英語喋れたら、もっと楽しかったやろし、あの子とも、もっと仲良うなれたと思う。
僕、いまそれがものすご悔しいねん」
アメリカ上空、高度八千メートルで彼は自分の気持ちのすべてを吐露し始めたのです。
半月前に出会ったばかりの、見ず知らずの大人に。
そこには以前、彼が持っていた虚勢や
物事に対してタカをくくるような態度は存在していませんでした。




彼の目をずっと見ていたマスターは、その語り口を聞いて
「この子は本気だ」そう思った瞬間、体が熱くなるのを感じました。
自分の出来ることは何でもしてやらなければならない。
そう思いながら、自らのあふれ出る気持ちを抑えるように、ゆっくりと彼に語り始めました。        


                                        続く